アイヌ語地名ってなんだろう?
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秋田のかりね
真澄遊覧記
タイトル
菅江真澄像
 菅江真澄は”常かぶりさん”と呼ばれて、年中頭巾のままでした。時の秋田佐竹藩主義和(よしまさ)公が、身分的には浮浪人であった真澄に会いたがり、拝謁を求めた際も頭巾はとらず,その訳は今も謎のままです。
地図
 三河の国の、今の豊橋市が故郷とされる真澄は、年少の頃からのさすらい人でした。初めは木曽路や信濃へ行き、しばらく逗留しました。
羽黒山三山神社
 18世紀の末になる天明4年9月、信濃・越後を経て羽黒山に参詣するために、出羽庄内に入った真澄は30歳ほどの壮年であったといいます。
真澄の絵
 相当な家柄に生まれた真澄は、その教養も多様で、国学の造詣が深く、医学や薬学にも確かな知識を持っていました。骨格のある絵は描写力に富み、求められれば襖絵や掛け軸を描き、その収入は旅の費用に当てられました。
旅のコース
 信濃から始まった真澄の旅は、出羽・南部・仙台を経て津軽から松前に渡り、再び本土へ戻って、下北から津軽を通る逆のコースで、出羽の秋田に帰ったのは享和(きょうわ)元年。真澄が48歳のときでした。
秋田城御隅櫓
 以後真澄は、久保田藩領内での記録生活が始まりますが、50代の終わり頃に、藩主義和公に始めて拝謁した際に、佐竹藩の地誌編纂を委嘱されます。当時真澄は、奈良家という地主の家で過ごしていました。
旧奈良家住宅
 秋田市金足地区にある、旧奈良家住宅と呼ばれるこの建物は、典型的な両中門(りょうちゅうもん)造りの大型農家様式とされ、18世紀の半ばの建築になりますが,藩政期には多くの文人墨客が足を運んだ、県内有数の豪農でありました。
下手中門
 菅江真澄は、身分のない漂泊者でしたから、初めて奈良家を訪れた際は、下手中門から土間を通り、部屋に入ったのではなかったでしょうか。
上手中門
 上客は主家(おもや)とよばれるこの上手中門から、玄関を経て奥の座敷に通されました。
奥の六畳の間
 しかし伝承によれば、滞在中の真澄は手あつくもてなされ、この「奥の六畳間」を書斎として提供されました。藩校助教の那珂通博(なか みちひろ)が訪れて、藩主義和の意向を伝えたのも、この部屋であったといいます。
仙北郡 神代
 地誌の執筆は、仙北郡・神代村で病を得て倒れるまで続けられ、約46巻に達しましたが、結局は真澄の死で未完に終わりました。この地誌とほかの領内紀行文等を一括して「真澄遊覧記」と呼ばれます。
粉本稿(真澄筆)
 地誌では地名の語源について、相当のスペースが費やされていますが、中でもアイヌ語源地名の指摘の多さに気付かされます。真澄のいう「蝦夷ことば」の知識は、2年間の北海道旅行で得たものであったようです。
北前船
 東北各地を歩いた真澄が、松前に渡ったのは35歳の時でした。津軽の宇鉄では船を待つあいだ、アイヌ集落に留まって蝦夷の知識を得ていますが、当時の津軽藩では、アイヌの風習の駆逐に懸命になっていた時のようです。
千葉大学 中川裕 助教授
 「津軽藩で、蝦夷の風俗の禁止令と言うのが出ているんですね。つまり、当時までアイヌの風俗がまだ残っていたと…しかもその当時の人達の名前を見ますと、皆アイヌ語なので、当時までアイヌ語が使われていたと言うことは確実なわけです」
アイヌ語
 アイヌ語の使用されたエリアは広範囲に及びますが、特に縄文時代に、北海道南部と東北北部に分布していた、円筒土器を伴う文化は、両者が数千年にわたって、同一文化圏にあったことを示す事項となっています。
かん満寺(象潟)
 真澄の日記「秋田のかりね」は、念願の陸奥の国に入ったところから始まります。それでは羽黒山に詣でた後の象潟から、以後この日記のコースに従って、アイヌ語源の地名について考えてみることにしましょう。
象潟図
 芭蕉が奥の細道の旅で、象潟を訪れてから百年。真澄の見た象潟の風景もまだ変わってはおりませんでした。
象潟
 しかしその20年後、文化元年の大地震で海底が隆起して、歌枕に残る景観はすっかり失われてしまいます。
子吉川
 酒田街道を本荘まで出た真澄は、子吉川にそって山道に入り、伏見村で足止めをくいます。
赤渋の渡し
 「よべの雨にやまさりけん、水深くして舟渡さねば、伏見村に宿をかる」。鳥海川の渡し舟の場所は、「赤そぶの渡し」と呼ばれました。
 現在は「赤渋」の漢字が当てられていますが、発音は「あかそぶ」に近い、「水の箱」を意味する、「アカスォプ」であったようです。箱とは川底の岩盤が箱のように深くなって、水を湛えている所をいいます。
清水峡谷
 晩秋の山間地は一夜のうちに真冬に変わりました。積雪の中、道を踏み迷いながら西馬音内にたどり着きますが、真澄が途中で渡った「見るさえ恐ろしい、谷川の轟き流れるところ」とは、この清水峡谷であったようです。
湯沢市・柳田
 西から雄物川を渡った真澄は、湯沢市の北端部に位置する、柳田集落でその冬を過ごしました。
三輪神社
 近くの羽後町・杉の宮の三輪神社は、真澄が晩年に著書の草稿を奉納したという、結縁のある神社として知られます。
役内川
 真澄は、翌年の5月湯沢を出発して羽州街道をくだるまで、早春の雄勝地方の風情を興味深く記録しました。横堀を二分して雄物川に合流する「役内川」について、地誌「雪の出羽路」には、アイヌ語源の指摘があります。
 「もと蝦夷のことばにして、シャクナイ 夏沢といえるぞ まことなる」とあって、北海道のシャコタンを例にして、サクがシャクそしてヤクに変化することを説明してあり、誠に明解です。
作内川
 先住民族にとっての季節は、夏と冬しかなく、雪のない期間に狩猟のできる川を、「サクナイ」夏川とよんだのでした。鐙田<あぶみでん>遺跡で知られる、湯沢市・山田地区を流れる「作内川」は、原形の呼び名のままで残ったようです。
桁倉沼
 雄勝をそぞろ歩いた真澄は,木地山高原・桁倉沼の景観を特に絶賛しました。
桁倉沼
 真澄は「ケタクラ」とはマタギ言葉ではないかと言っていますが、難解な地名とされています。かつては豊かな水量を誇っていた沼でした。
 沼の西側に洞窟のある断崖があって、後部の山並みに続いていますが、沼に集まる小動物を狙って「山の頂に 置き弓(わな)を 仕掛ける」「ケイタクラル」であったのではないかと考えられます。
横手市・蛇の崎
 雄勝郡を出た真澄は、平鹿郡に入り数日滞在しました。「雪の出羽路」には、江戸時代、当時の郡役所は現在の増田町、上亀田村枝郷平鹿村にあったと伝えています。
増田町・亀田
 平鹿村のある亀田は、南を成瀬川が西に流れる、真人山扇状地の頭部に位置します。真澄は「平鹿村が郡の始まりであって、アイヌ語でよしという意味のピリカが、訛って伝えられたらしい」としています。
 しかし地形から見て、単に「崖の 上」を意味する「ピラカ」ではなかったのでしょうか。先住民族の命名した地名は、狩猟生活に密着した自然地形名が多く、美化した地名は殆ど見られないのです。
田子内(成瀬川)
 亀田村に隣接し、成瀬川の中流に位置する東成瀬村「田子内」。真澄は川に付帯するアイヌ語源の地名としながらも、「田子」には多くの説明を加えて、たくさんの解釈を提示しています。
 「田子内」それは地区の成瀬川の状況から見て、「タクンナイ」「ごろた石 ある 川」とよばれたのではなかったのでしょうか。当時肴沢には、後に田子内鉱山と呼ばれる、増田銀山が盛況をきわめていました。
雄物川
 真澄は、横手盆地内の地名にも強い関心を示します。平鹿郡を東西に二分して北流する雄物川は、古代ではもつと東側の睦合・植田間を流れ、浅舞を中心とした大沼沢地帯があったと考えられています。
 奥羽山脈からの扇状地の発達で、雄物川が西側に移行した後、その地域に、湿原に関する地名がたくさん残りました。「浅舞」を真澄はアイヌ語の「アサナイ」ではないかと言っていますが、「湿地帯の其処にある所」を意味する、「アサモマイ」であったようです。
樽見内(たるみない)
 浅舞に隣接する「樽見内」も、同じ時期に命名された地名のようです。真澄は北海道の「小樽内」を例にだして、樽見内をアイヌ語の「砂の道の沢」と説明していますが、地勢の設定に多少の無理があるようです。
 やはり湿原の中の、奥羽山脈からの無数の川が形成する、扇状地の末端に湧出した、「タオルンメムナイ」「川岸の高所に ある 泉・川」の意味ではなかったのでしょうか。かつての広大な原野には、たくさんの湧き水をもつ泉があったはずです。
鹿島人形
 真澄は、天災や厄病除けに祀られた、鹿島人形に興味を示します。前の年に東北地方を襲った大凶作は、暗い世相を反映していましたが、真澄の描写した農村の姿は明るく,活気に満ち満ちているのです。
諏訪神社
 平鹿に隣接する六郷町は、横手盆地のほぼ中央部に位置し、東側は奥羽山脈に接していて、西北流する丸子川の扇状地にあります。
涌泉群
 伏流水が泉となって、町の随所に湧出しており、住民の日常生活に密着した、清水の豊かな町として知られます。
ニテコ清水
 真澄は、六郷での冷たい清水の湧き出る泉の多さに、「細やかにたずね記さば、百泉(ももしみず)も有べけれども」と驚き、その中で「ニテコ清水というは、ささやかの泉ながら、いつも増減なき泉なり」と特筆しています。
 「ニテコ」とは奇妙な響きのある呼び名で、その語源には諸説があるようですが、地名から考えて、単に(林の中)という意味を含む「湿地帯にある窪地」「ニタッコッ」ではなかったのでしょうか。
刈和野
 雄物川の中流で、羽州街道に沿った平坦地にある刈和野村は、古代からの政治経済上の重要地点でありました。
洪水資料
 真澄は、この地名について多様な考察をしていますが、雄物川による有数な洪水地帯であることには、何故か触れておりません。
 雄勝・平鹿・仙北三郡を貫流する雄物川は、大曲の北で玉川と合流し、ここから西に蛇行しながら出羽山地を横断しています。洪水の度に流れが変わった刈和野は、「蛇行する 岸の ある 所」「カリワヌイ」であったと考えられるのです。
地図
 雄物川は横手盆地と秋田平野の生産地帯を結び、農業用水の他、秋田藩にとって重要な輸送動脈の役割を担ってきました。流路は133km。大仙山山麓の十分一沢川が源流と言われています。
旧 雄物川
 古くは土崎湊にそそいだ雄物川は、現在は秋田市新屋地区で西流して日本海に出ます。9世紀初めの、地震による流路の変化説がありますが、地質調査では、更新世時代の地殻変動以来の流路とされています。
輸送船(角間川湊)
 「おもの」の語源について、真澄は土崎湊の名前と、仙北地方の年貢米の大量輸送から、二つの説を挙げながらも「まことは源に御膳沢(おものざわ)というありて、その水流れきたれば、しかいうとなも」としています。
河口
 御膳沢の位置は今は不明です。しかし「おもの」の語源は,川のみなもとではなくて、河口にあるのではないかと考えるのです。
 「おもの」それは「河口 ふさがる 川」を意味する、「オムナイ」ではなかったのでしょうか。かつては季節に応じて鮭や鱒の大群が河口をふさぎ、川幅いっぱいにひしめきあって、上流を目指したことでしょう。先住民にとっての川の流れとは、上流から下る水のことではなくて、河口から上流を目指して登る魚の群れのことでした。
比立内
 このあと、角館・西木村から大覚野峠を超え、五城目街道  を経て秋田に入り「秋田のかりね」の旅は終わります。
角館町
 しかし、陸奥の辺土に残る古代のおもかげに、身をもって接し続ける真澄の旅は、ここからさらに40年以上も続くのです。
角館神明社
 仙北郡神代村で、地誌編纂の調査中に倒れた真澄は,角館の知人宅でその生涯をとじました。
墓石
 残された、中央人の体験としての多くの記録は、江戸時代の陸奥の国の人間を証明する、貴重な資料となりました。真澄の墓石には享年「七十六七」と記録されています。
古四王神社
 「佐竹義和公頌徳集」には次のように記されました。「又三河の人、菅江真澄は、藩の嘱付により領内を巡覧し、近国の史志、神社仏閣の考証に関する書「真澄遊覧記」八十余巻を著はし、その他の零本亦すくなからず」。
以下次号

渋 谷 隆
shibuya@yutopia.or.jp

アイヌ語には文字がありません。本文のローマ字は、文法上の理由から使用される音素表記です。

表記中のハイフンは地名表記のみで、コミュニケーションには使用しません。

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